新潮45 11月号 本木寄稿

2008-10-26 05:31

考えさせられる、良い寄稿文だなあと思いました。本木マニア必読。
masterが「おくりびと」ではいろいろなタイプの本木演技が全部詰まっている感じと書かれてましたが、この寄稿文も、本木さんの死生観等をわかりやすくまとめてあり、これが40代本木というものか、シンプルで、ジェリフィッシュでありながらちゃんと骨格があって、けっこう凄いもんになりつつあるなと思いました。

 読後、この本木メッセージに対して、私たちがお返事を書くような感じで、友人にメールで返事を書くみたいな感じで、
・「自分は死んだらこうなると思います」とかいうテーマに沿ったものでも、
・「本木さんってネットやってない人なのに、″・・・(笑)″って書くんだよねえ」とか「最近、文章にカタカナ入れない?」とかの友達ノリでも、
・小学・中学の国語の授業のときみたいに、「作者はこの段落でこう書いているが、自分はそうでは無くこう思う」でも
・その他もろもろを何でもここに書いていけたらなあ・・相手が夏目漱石じゃ無くて、本木さん(昔はモッくんだし)・・という書きやすさがあるし、いろんなものが出てきたら楽しいなあ・・と思い、「おくりびと」映画トピでは無く、ノンジャンルの単独トピにしました。(でも、そんなことやるのが私だけだと寂しいけどなあ・・)

 国語の授業、と書きましたが、古典のかおり高さといったらほめすぎかもですが、この寄稿文、そのまま高校入試の国語の問題にしてもOKくらいの完成度・背筋の通り方という印象です。
 むしろ、最近の高校入試の問題って、もっと斜にかまえたような表層をとりあげたようなテーゼというよりアンチテーゼの性格のものが多く、高校入試~大学入試と息子の入試問題集などを見ていて、オイオイ、これに対してまた問題作って答えさせるのかぃ???思ってました。
 最近のというより私たちの時代の入試問題に近い感じで、きちんとテーゼになってて、叩き台になり得るだけの骨格を持っていると思います。本木さんがダビンチで紹介してた本のベクトルって感じかもです。

2008-11-03 03:36

ヰタ・セクスアリスじゃなくて、ヰタ・デスアリスですかねえ・・まあそうは言わないでしょうが、本木寄稿の真似して、自分と死との邂逅を書いてみます。私は、死にはかなり鈍感なほうだと思います。本木氏のような死への感受性は、たぶん無いのだと思います。

(その1)
 本木氏の場合、はじめは「死体」から入ったようですね。インド旅行の発端は「スタンドバイミー」みたいなノリだったと。その感じは、たぶん誰でも子供の頃に類似の記憶があると思いますが、私のミニ・スタンドバイミーはこんな感じです。

 小学校2-3年の頃、友達数人と地面を掘っていたら、犬か猫の頭蓋骨を発見したのですが、「骸骨だ」「殺人事件だ!」と皆で興奮して、交番のおまわりさんに見せに行ったが、とりあってくれないので、理科を受け持っていた隣のクラスの担任の先生の家に持って行った。先生は不在で奥様に預かってもらった。
 翌日、先生がその骨を学校に持参してくれて、昼休みに「犬の骨だね」と頭蓋骨の説明をしてくれた後「埋めてあったところに戻しておこうね」と、先生同行のもと、放課後埋めてきた。頭蓋骨を見たことのある子は「フン」って感じだったけど、初めて見る子は興味シンシンで、20-30人の子がゾロゾロ一緒に埋めに行ったと思います。その後しばらくは頭蓋骨の話でもちきりでした(特に発見者の私ら数人)。

 その直前に祖母(別居)が亡くなっていたのですが、祖母の死と犬の頭蓋骨は全くつながりの無い別ものでした。
 祖母の死は、祭壇と写真と寺の記憶だけ。むしろ、具体的な死のイメージとしては、犬の頭蓋骨のほうが強い印象で残っています。
 その後、飼っていた自分ちの犬が死んでますが、死体を見ていないせいか、やはり具体的な死のイメージはありません。
 身近なものの死のほうが具体的な死のイメージを伴わないのは、父・母の死もそうでした。実感が湧かないのでしょうね。遺体と添い寝して、顔をのぞきこんだりしても、なんだか「ふ~ん?」という感じで、生と死の差が、ぴんと来ない。

2008-11-03 17:46

 子供は、「死体」とか「お化け」とかが大好きですね。もっと小さな子供だと、「死ぬ」とかいう言葉だけで泣き出したりする。大人のほうが「死」に近いはずなのに、子供のほうが「死」に敏感なのは不思議です。乱歩とか夢野久作とかの怪奇系は、子供心なんでしょうね。
 ちょうど本木氏がメメント・モリに出会った頃あたりの時期でしょうか、上野正彦さんの本、養老猛さんの本、と立て続けにちょっとした「死体」ブームがあった気がします。TUTAYAのスプラッター・ホラー系映画の専有面積も、いまより全然多かったし。もうそれぞれスタンスは違う・・というか、青木さんの「納棺夫」とスプラッターでは、同じものを見ても、光を見たい人と、ぎゃーーっと驚きたい人と、スタンスは180度違うんでしょうが、両方興味持って見てた人も多かったので、多くの人の潜在意識に「死」にもっと触れたいみたいなものがあったんですかね。「死」=「リアル」って感じで。
 本木さんが書いていたように、「人は刺激と癒しの両方を求める、わがままな生き方を探しています」という事かも知れませんね。

(その2)
 自分は、「死」に対する救いのようなものは全くみつけられずにいますが、唯一、少しだけあるとしたら、墓地に行くと、なんとものどかなのんびりした気持ちになる事でしょうか。墓地というのは、結構好きです。
 以前、横浜の外人墓地に行った時、あまりの墓の数に、「ここでは生きている人間の数より、もう死んでいる人間の数のほうが多いなあ・・」となんかユーモラスな気持ちになって、直後「おいおい待てよ、それは当たり前じゃ無いか。生きている人間の数より、死んだ人間の数のほうが常に多いはずだ・・生きている人間の数はすごく少なくて、死んだ人間の数とこれから生まれる人間の数が圧倒的に多い。時間と同じだな。」と思い、「それなら死ぬのもそんなに悪くないかもなあ」と思った事がありました(笑)。もともと墓は嫌いでは無かったのですが、それ以来、意識的に好きになりました。家の墓掃除に行って、特に、他に誰もいないような時、たくさんのご先祖がそこに一緒に居るような気がして、なんだかほんわかした気持ちになります。
 「死は門」と言われてもダメなので、私が死にそうになった時「死にたくない!!この世にいたい!」とわめいていたら、「死んだ人間の数のほうが多いんだからさ・・」と言ってなぐさめてもらおうかな。「自分の統一人格は解けるけど、分子だか原子だかクォークだかに分解されてまた何だかわからないものになるのも面白いナ」とか、そういう風に思える心境になれたらな、と思います。

2008-11-16 13:53

たらたらと書いていて、本題の本木寄稿文から離れてしまいましたが、
 自分の側の死との遭遇(死というものを感じた瞬間)は、そんな感じでしょうか。
身近な者の死に関しては、祖母も父母もそれなりに天寿を全うしたといって良い年齢で死んだいるためか、不在の寂寥感・生前もっとこうしておけば良かったなどの後悔などにとどまり、生きている人間より死んだ人間との絆を深く感じて死の世界に空想的に傾斜するなどということも無くすんでいます。ただ、これから先、近い世代などの身近な人々に先立たれていった時は(自分が長生きした場合ですが)、生よりも死の世界に傾斜していくんだろうなあとは思っています。私らの年だと、中学の音楽の授業で英語でフォスターの「OLD BLACK JOE」というのを歌わされました。「親しい人は皆死んで、我を呼ぶ優しい声が聞こえる。OLD BLACK JOE」というのですが、「おくりびと」の笹野さんもオールドブラックジョーの役割だと思いますが、親しい人との死が、うまいこと自分が自然に死んでゆくことへの心の準備になるんじゃないかと思います。大多数の老人は、そうやって自分の死と心の折り合いをつけていってるんじゃないかなあと思います。ただ、私の親の年代だとお経のさわりくらいは暗唱している人もかなり居て、すでに葬式仏教ではあるとはいえ、子供の頃から仏教のサワリくらいは入ってる感じで、メメント・モリが日常的にゆるやかにできてたような気もします。

 本木さんが死体から入ったというのは、これこそ、現代・・って事なんでしょうね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)納棺師の意味
 本木さんは、納棺師を「オーケストラの指揮者のように空間全体を支配し・・・」と書いていますし、「出産と納棺の空間には同じ空気が流れているのを感じます。・・・・赤子を取り上げる人が「先生」と呼ばれるのに、あの世に送る“おくりびと”が「先生」といわれないのもおかしい気がします」と書いています。

 従来は、死に際しての「師」の役割は、坊さんなどの宗教関係者が担っていたのだと思います(実際に死体に触れる役割では無いけれど)。中上健次の「千年の愉楽」は、語り部のオリュウノオバが産婆、その夫が坊さんという設定ですが、ちょうど本木さんの言う出産と死とパラレルで、象徴的だと思います。
 寺や坊さんと檀家との関係が希薄になり、葬式はほとんど葬儀屋さんが仕切るという今の葬式だと、坊さんが「オーケストラの指揮者」になれなくなって来たという事かも知れません。昔は、儀式の精神的なよりどころはありがたいお経をあげてくれる坊さん、実際に死体を扱う人は裏方、という分業だったけど、坊さんの意義がなんだかよくわからなくなって来て、納棺夫が「指揮者=師」という変化があるのかも知れません。
 ただ、青木新門さんはちょっと特殊な納棺夫なのでは無いでしょうか。納棺夫が先にあったのでは無く、詩人が納棺夫をされるようになった。もともと言葉をお持ちだった方が、死と身近に触れ合う事によって、さらに言葉を深められた方。恐らく昔の納棺夫は、どんなに納棺技術が美しくても、「千年の愉楽」でいえば言葉をもたずに生まれては死んでいく路地の子たちの側だったと思います。坊さんがオーケストラの指揮者だった時代の納棺夫はたぶん職人か肉体労働者だっただろうと思いますが、究極の部分は言葉にあらわしにくいのが技・肉体労働というものだと思うので、もともと死にかかわる精神的な部分を担っていた、または精神的の任に適していたとは思いにくい。最近の均一化社会の中で、いろいろな方が納棺夫になるようになり、変わってきているんだろうと思います。
 
 納棺師がオーケストラの指揮者であるということは、納棺師の僧侶化といいますか、今後は、坊主不要?・・にもなってくるかもで、ちょっとした葬式革命が起こるかもしれませんね。私は無宗教な人間ですので、別にそれでも良いと思っています。
 僧侶と納棺師、どちらが「師」にふさわしいかというと、それはもう個人個人の僧侶なり納棺師のスキルだと思います。

2008-11-16 19:49

(2)“送られる”時間をとることを許されなかったひとびと
本木氏は、「「坂の上の雲」の撮影に臨んでいて、海軍基地の戦死者の慰霊碑を目にして、
“送り送られる”時間と空間をもてたひとびとは幸せだと思う、戦争に殉じた多くの人たちが遺体も残らず、海の藻屑と消えたことに思いをはせざるをえない」・・と書いています。

 三島由紀夫とか、逆に、そういう終末に憧れていた人もいるわけですよね。われらの時代で、本木さんの「自滅自虐自己嫌悪」は「自分をコントロールできるとかデザインできるとか思っちゃってる部分があるからかも~」みたいな話をしてましたが、三島由紀夫は死ぬことまでもデザインしたかったんでしょう。亡くなった兵隊さん全員がそうだったわけでは無いけれど、コントロールしたい・デザインしたい欲求の究極を求めた一つの形では、国(という共同幻想)と一体化して海の藻屑、というデザインもありなんだと思う。
今の共通認識だと戦争=悪、戦争=強制された死と解釈されるけど、日露戦争の時代だと必ずしもそれですべてでは無かったと思います。
 藤原新也の「人間は犬に食われるほど自由」のメメント・モリと逆に、人間は観念や幻想のためになら平気で海の藻屑になれるほど自由というかアホというかキチガイというか、それもまたありなんだと思います。

 逆に三島と対極というか、三島由紀夫が気味悪がってた深沢七郎の「楢山節考」だと、捨てられるおばあさんは、心境が宗教的な高みに達して、残酷な話だけど清々しい(余談ですが、東へ西へは、床に老婆が倒れてたりカラスがいたりで、楢山節考を連想してしまいます・・)。
 こちらは、国とかいう近代的なデカイ規模では無く、貧しい村の掟(というやっぱり共同幻想)に殉じて死を受け入れるわけだけど、「犬に食われるほど自由」のインドも、老人がカラスに食われる「楢山節考」の世界も、わりと近い気がします。藤原新也のインドはあっけらかんとして穏やかなのに対して、楢山節考のほうはたぶんタブーみたいなものが伝説化したものが題材のせいか奥底に怖さがあるけど、それを含めて「死」なんだと思います。姥捨伝説が実際にあったものなのかどうかわからないですが、ある程度の集団の掟になっていた場合、実際にカラスに食われる覚悟を決めたりすることもありなのかもなと思ったりします。人間そこまでいけるのかもナ・・と(これも余談ですが、楢山節考の3回目のリメイクは、おばあさん吉行和子さん、息子杉本哲太さんをリクエスト)。

 「人間は犬に食われるほど自由」と、「送り送られる時間と空間をもてたひとびとは幸せだと思う」とは別に矛盾するものでは無いけれどちょっと異質な気もします。おくりびと~坂の上の雲と続いてる中、本木さんの中の人が、今、本人と小林大悟と秋山真之のミックス状態なのかもと思ったりしました(笑)。

2008-11-26 00:21

都こんぶさんの文章、興味深く読ませていただきました。都こんぶさんの言のとおり、本木さんの文章は分かりやすくて、かつ芯が通っていると思います。中高生の道徳の授業(って今でもあります?)に使ってほしい。
特に、『赤子を取り上げる人が「先生」と呼ばれるのに、あの世に送る“おくりびと”が「先生」といわれないのもおかしい気がします』のくだりについては、様々な意見を交わしてほしいものです。「その通り」って思う人もいれば、「それはちょっと・・・」って感じる人もいるでしょうから。

私は、実父が20代、いとこが10代で亡くなっているので、わりと小さい頃から「人間は、いつかは死ぬんだ。しかも、意外とあっけなく」と思ってきました。
また、小学校に上がる前まで東北の山深い所に住んでいましたが、そこでは家の裏や畑の周りなどにお墓が点在していて、子どもたちは墓石の周りで普通に遊んでいました。(もちろん、墓石にいたずらをするのはご法度。)
なので、私の場合、「死」というものが割合身近な環境で育ったと思います。そのせいか、自分がいつ死んでも構わないと思うし(自殺は考えないけど)、腐乱死体で見つかっても別にいいやって思ってきました。
まぁ、「おくりびと」を見てからは、腐乱死体は後々人に迷惑をかけるみたいなので、なるべく避けようと考え直しましたが。

ところで、11月16日付けの毎日新聞に、「自分の死について考えたことがない、というお年寄りが増えている」という趣旨の記事が載っていました。開業医が、80歳過ぎの男性から「私も死ぬの?」と尋ねられた例もあるらしいです。
これには、正直驚きました。「死」は貴賎の区別なく全ての人に訪れるということは、誰もが当たり前のことと考えているのだろうと思っていたからです。案外、世の中では、「死」は自分から遠い存在として認知されているのですね。
年配者ですらそういった状況ならば、若い人ならなおさら・・・ということなのでしょう。少し前に報道された、中学生の「砂風呂ごっこ」の果ての事故など、一歩間違えれば死ぬかもしれないことは分かりそうなのに、そこに思いが至らないというのは、やはり日常や思考の中に、「死」というものが不在なのかもしれません。

 一方、ヤフー映画の「おくりびと」のレビュー投稿を読んでみると、自分の家族をおくった体験やその時の感情など、あふれる思いを書き連ねたものが少なからずあります。日常生活ではなかなか話題にしづらいのだけれど、でも「死」についてじっくり考え、語ってみたい・・・そう思っている人は結構多いのかもしれません。
 
 「おくりびと」という映画を媒介として、現代人が今よりほんの少しでも「死」を考えるようになったら、「死」を軽々しく扱うことも、逆に恐れすぎることも減っていくのではないのかなぁ、なんて考えは楽観的すぎるでしょうか?

 何だかまとまらないうえに、本木さんの寄稿文とは関係ないことばかりダラダラ書いてしまいました・・・。

2008-11-27 02:53

>ところで、11月16日付けの毎日新聞に、「自分の死について考えたことがない、
>というお年寄りが増えている」という趣旨の記事が載っていました。開業医が、
>80歳過ぎの男性から「私も死ぬの?」と尋ねられた例もあるらしいです。

これは凄い話ですね。おじいさんのイメージというと、今でも笠智衆さんあた
りで止まっているのですが、今の80才が、すでに昭和3年生まれですね。
子供時代は戦争で、たくさんの死が間近あったんじゃ無いかと思うのですが、
自分の死という事はまた別なんですかね。

1年くらい前だったか、韓国の地下鉄か何かの事故のときに、TVで、その直前
の様子が流れて、皆、異常は感じているんですが、死に至るまでの出来事になる
とは思っていない。
 大惨事のような危機的状況では、人間、あわててパニックになるよりは、のん
きにしていて対応が遅れて死ぬケースが多いと、コメンテイターが言っていまし
た。「人間、自分だけは死なない」という錯覚があるみたいだと。おかげで、パ
ニックによる二次災害みたいなものは避けられているのかも知れないですが、冷
静というよりは、ぼーっとしている感じで、ちょっと驚きました。
 台風や津波などで避難命令が出ている中、船を見に行って波にさらわれて亡く
なるご老人もかなりおられるし、「まさか自分は大丈夫さ」みたいな気持ちって
誰にでもあるのかも知れません。

「私も死ぬの?」のお年寄りの言葉って、凄く素直で素直な言葉かも知れないで
す。
私の母は、自分の体が急に自由がきかない状態になり、救急車に運ばれながら
「なんでこうなっちゃったんだろう?」と、実に不思議そうに言った後、昏睡状
態になりました。高齢で、半分ボケが入っていましたが、それだけに逆に、知性
で加工されない、素直なナマの感想だったかも知れません。
 予定されている事であるにもかかわらず、主体にとっては非常に不条理な事、
「どうして?なぜ?」と言うしか無いことなのかなあと思います。

 メメント・モリ と真逆の立場としては、小田実さんの死を前にした晩年の映
像で「世界の事を考えていると、自分が死ぬことを考えているヒマが無いんだよ」
と語っていたのも、印象的でした。死を静かに受容するしないでは無く、こういう
スタンスの方は、余命宣告を受けても、生きられる時までとにかく活動しようと
するんだろうな、と思いました。

2008-11-29 02:38

>特に、『赤子を取り上げる人が「先生」と呼ばれるのに、あの世に送る“おくりびと”
>が「先生」といわれないのもおかしい気がします』のくだりについては、様々な意見
>を交わしてほしいものです。「その通り」って思う人もいれば、「それはちょっ
>と・・・」って感じる人もいるでしょうから。

私は「それはちょっと・・・」派で。

昨日のイトイ新聞、http://www.1101.com/okuribito/2008-11-27.html
は、この話とリンクする話ですね。(葬儀屋vs寺(笑))
この流れだと、従来勢力の寺のほうも巻き返しをはかってきて、そのうち寺所属の納
棺師が出てきたりするかも~。ニーズのあるニッチ産業には、従来勢力の資本の大き
いところが必ず参入してきますもんね(笑)。なんか身も蓋も無い話になっちゃいま
すが、あんまり映画「おくりびと」が流行ると、葬儀屋が葬式に付加価値つけてくる
のかな、とか、戒名のランクでえらい値段が違う、みたいなわけわからんものと同じ
になってって、納棺の儀も特上・松竹梅とか、特上だとフルコースの儀を執り行う偉
い納棺師様が来ますよ、梅だと駆け出しさんだからまだ納棺「夫」で必要最低限で、
中間は納棺「士」ですね・・みたいな。
 本木さんの気持ちとはうらはらに、どんどんインチキ化する流れにいきそうな。
 青木さんの「納棺夫」は、世の中に無くてはならない仕事をこなす人だからこその
深みという気がするのですが、付加価値つけて逆の方向にとり込まれてしまいそうな
気がするんですよねえ。

逆に「赤子を取り上げる先生」のほうでは、加重労働からなり手が減って、深刻な
産科医不足とか言ってますよね。病院で産婆さんを採用して、産科医と産婆さんとの
分業体制を組もうという取り組みもあるとか新聞に出てたり。
 「先生」と呼ばれる職業全体、子供達のあこがれの職業ではなくなりつつあるの
かも。皆の権利意識が高まったのは良い事だとしても、反面行きすぎたクレイマーも多
くなり「先生」は身を守ることをまず第1に考えなきゃいけなくなってて、「聖職」は
割に合わない、と皆、思い始めているのかも。「先生」が地盤沈下している、という
より、「先生」が「師」として成り立ちにくくなってる気がする。

そんな事も含めておくりびとは「先生」と呼ばれない位置に居たほうが良いと思いま
す。カースト制度のトップ(聖職者)では無く、イギリスの労働者階級とか江戸時代の
士農工商の「工」の位置あたりが、精神的にはオイシイ場所なんじゃないかあ。
 出会った人がそのおくりびとを「師」と思うかどうかは、あくまで心の問題で良いん
じゃないかなあ・・。

 というか、「先生」なんて呼ばれないほうが自由なんですよね。ユウヤ氏がロケンロ
ーラー(not ミュージシャン)だったり、山下洋輔氏が「自分はミュージシャンじゃ無くてバン
ドマン」と言ってたのも、「むずがゆくって・・」みたいなテレだけじゃ無くて、その
ほうが自由だからでしょ、ロケンローラーであれば行き着く先は、ミュージシャン(音楽)と
いう枠に縛られなくて良いんですもん。
 なぜだかわからないのですが「死」を扱う職業というのも、イメージだけですが、
枠からはみ出したダイナミックなものだって気がする。賤業扱いされていたのには、畏
怖もあったんでは無いのかなあ。「死」って95%怖いんだけど5%くらいちょっと覗
いてみたい、みたいな惹かれる部分もどこかにあるんですよね。不思議だなあ。

2008-11-29 13:15

↑(自動改行を忘れて、つい癖で手動改行してしまってたため、とんでもなく読みにくい長文になってしまっててすみません・・)

2008-12-03 12:49

>あんまり映画「おくりびと」が流行ると、葬儀屋が葬式に付加価値つけてくるのかな、とか、戒名のランクでえらい値段が違う、みたいなわけわからんものと同じになってって、(略)本木さんの気持ちとはうらはらに、どんどんインチキ化する流れにいきそうな。

 うーん、その恐れはありますね。
 私が危惧しているのは、一躍メジャーになった納棺師のニーズが高まり、あまり訓練を受けていないエセ納棺師が葬儀に派遣されて、ご遺体の扱いが雑になってしまい、結果ご遺族の感情を傷つけるようなトラブルが起こらなければいいけどなぁ・・・ということです。

>賤業扱いされていたのには、畏怖もあったんでは無いのかなあ。

 この言葉で思い出したのが、舞台『女中たち』のプロデューサーのインタビュー記事です。「本木くんには、“川原者”の気持ちを忘れてほしくない」といった趣旨のことでした。

 確かに、どんなに人気があっても、どこか哀しみや恥じらいを抱えた人の方が、俳優でも歌手でも深みがあって惹かれるような気がします。
 逆に、あるタレントが以前「値段を気にせず買い物ができるようになって、俺も上流になったなぁって思う」と言ってたのには幻滅しました。そもそも、“金持ち=上流”ではないし。
 そういう勘違いをしないためにも、“川原者”意識は必要なのでしょう。

(ますます「おくりびと」から離れた話になっちゃいました・・・。)

2008-12-09 03:48

>(ますます「おくりびと」から離れた話になっちゃいました・・・。)
いやあ、「おくりびと」スレじゃ無いですから(笑)。

>確かに、どんなに人気があっても、どこか哀しみや恥じらいを抱えた人の方が、俳優でも歌手でも深みがあって惹かれるような気がします。
なるほど。実際年齢いって残ってる人ってそういう要素があるような気もしますね。
芸能とかスポーツとかの世界での成功ってステイタスというようなものと違いますもんね。
 かわらこじき、っていうポジションは、やる側にとっては「自己表現だゲージュツ」だと言ってしまうと角が立つところをうまくかわしていくうまいスタンス取りだったんだと思うんですよ。皆実業従事者だった時代に虚業やってるんですもんね。

 ネットの書き込みなどを見ていると、特に今って世界中そうだと思うんですが、世間の成功した芸能人等に対する視線って、なんか羨望とか嫉妬とかの混じり合って錯綜した・・スポーツ選手に対してもそうだと思いますが、ちょっと女性的な陰湿さっていうかあまり暖かいものでは無い感じですね。世界中そうですね。昔の、ほんとのかわらもの時代のほうが精神的には楽だったかも知れない。大衆社会というか消費社会というか、マスコミは持ち上げてすとーーんと落とすとか言われるけど、もともと大衆の側になんかそういうニーズ(笑)があるんでしょうね。自分でもあのポジションに居て「値段を気にせず買い物」(笑)ができてたかも知れない、って潜在的に思っているのと、今の場所に居る自分自身を許容してない、みたいなのと両方あいまって。大衆側に、持ち上げる快感もあるけど、落とす快感もあるんだろうな、と思います。まずは持ち上げるに際して、後で落としやすい「等身大の」人を自然に持ち上げているような気もしますし(笑)。

 一昔前は、大衆側の欲求の「持ち上げたい」ほうが勝ってたのかも知れません。庶民の自由度が低い分、庶民は自分の居場所はここしか無いという意識があって、夢の投影としてスターが必要だった。逆に言うと、庶民が地に足がついた生活してたということかも。
 政治家に対してもそうなんですよね。人材不足もあるんだろうけど、大衆が積極的に人材不足にしてる面もあると思います。

 芸能じゃ無くて、芸術・アートってあたりに行くと、基本的になんだかわからないものでマーケットが狭いから、そういう悪意にさらされず無風だけど活力が無いというかお金がもうからない(笑)。巨匠みたいな人が出にくいですよね。

 本木氏は意識的なのか無意識なのかわからないけど、表面に出たり引っ込んだり、できるだけ余分なストレスの少ないうまいポジショニングしてるなあと思います。かわらこじきとはちょっと違うけど、こじきのようなこじきじゃ無いような(笑)。
 今回も、今のところ国内の主演男優賞取れてないのも、かえって良いのかも知れないなあ(笑)。

 ぜーんぜん本木さんとも離れますが、消費社会の家元のアメリカで、オバマさん人気がどうなっていくのか、すごく興味のあるところです。オバマさんが人気を全うできたら、ちょっとまた、大衆がヒーローを求める時代に戻ってるのかなあ?とも思います。これはこれでいっちょう間違うと怖いことになるんでしょうが、現象面だけ見ると興味深いです。
 今日のイトイ新聞の「誰もそんなに積極的じゃなかった」って話も、すごく面白かったです。タイミングなんだなあってほんと思いました。小口氏が聞き流して忘れていたっていうのも面白かったです。15年の時間差でしょ、小口氏のところで10年。
 で、山崎さんの感じも10年前では無理っていう話も、JRAのCMでの二人の感じからそうだろうなあって思います。山崎さんかわいいんですけどね、今のほうがもっとかわいらしいですよね(笑)。
 

2008-12-15 02:32

新潮本木寄稿詳細解説のような、イトイ新聞の鼎談が完結。いろいろ面白かったですが、一番興味深かったのは、茶道はもともと戦地に赴く武士を送る最後のもてなしの意味を持っていた、千利休は「おくりびと」だった、日本人は死にまつわることを様式化する、という話でした。
「様式美」という言葉を聞くと、まずシロウト連想するのが、室町時代・能、ってイメージなんですが、「様式美」って、室町時代あたりの発祥なんですかね。と言っても、能ってちゃんと知らないのですが、ほとんどが幽霊話?
映画での納棺の儀の様式美や、本木さんが言っていた「冷たい」遺体を取り巻く「なま暖かい」空気っていうのは、自分的には、「ワビ・サビ」よりも、「幽玄」のほうを連想します。・・「納棺夫」様式化して「能棺師」・・

死を様式化する、っていう事では、朝鮮半島の「泣き女」って、日本とは逆に感情を発散させる方向で、面白いなあと思います。エジプトのミイラだとかツタンカーメンのお面みたいなのも、なんか不思議なとこに行くよなあ、という感じですが、ああいうお面みたいな「物」を作ってしまうのは様式化って言わないんでしょうね。ミイラのほうは、彼岸を見てはいるんだけど、中沢さんが言ってたレーニンやホーチミンの「保存」に近い要素もありそう。イトイさん中沢さん的に言うと、「唯物論」のプロト・タイプということになるのかな(笑)。日本の様式化はあくまで身体表現で、後に残らない「形」ですね。

いずれにせよ、後に残って生活していかなければならない生者にとって、たとえ親しい家族であろうと、生活の場に死体があるというのは、衛生面でやっかいな事で、生きていくためには、死体と同居はできない。まずは「おくる」というより「片づけ」る必要がある。腐臭を嫌な臭いと感じるのは、人間独自の環境適応能力でもあるんでしょうね。他の肉食動物は、死体の肉を食うために、ある程度の腐臭なら良い臭いと感じているのかも、と思うと、いつから人間がそう感じるようになったのか、不思議な気がしますが、住居を構えるようになってからなんですかね。「彼岸」だの「精霊流し」だの、死には川にまつわる言葉が多いように思いますが、もともとはアジア圏では、インドで川に流すみたいな具体的な何かの風習があったのかも知れないですね。

2009-03-16 02:58

週刊朝日「本木雅弘との秘話15年」を読みました。
青木さんが、蛆の光を見て宗教に傾倒したとき「それまで唯物論と実証哲学しか読んでなくて」と言うのがあらためて興味深かったです。
 しかし、死は、宗教なくしては乗り越えられないものなんでしょうかね?普通に理屈でも、生と死というのは主体にとっては分岐点ですが、タンパク質とかそういうことで考えれば生きているときは形を保っているけど死ぬとだんだん腐って最後は崩れるというのはごく当たり前のことなのにもかかわらず、死ぬのを怖いとか嫌だと思うのは、どうしてなんだろう?生きのびるためには本能として意味のある感情なんだけど、死ぬときにはじゃまになりますよね。死ぬことの準備までインプットされてないってことですかね。
 しかし、救いはあるなら欲しいけれども、救いのための救いは自分は嫌なんだよなあ、青木さんみたいに自然にそう思える時がくれば良いのだけど、自分は無理そうだなあ・・とか思いながら、次のページをめくると、「バオバブの巨樹」の写真。・・これ良いですね~。
 巨樹の先が空とつながって見えて、小さな頃に見た絵本の、ジャックと豆の木の絵とか、マッチ売りの少女が天に昇るときの絵とかを思い出して、こういうところでは、生と死が自然につながって見えるんだろうなあ・・人間の死体が、ライオンやシマウマの死骸と同じようにごく自然に受け止められるんだろうなあ。。なんて思いました。市川準さんの「病院で死ぬということ」の風景と、真逆の世界ですね。都会では人間だけで無く、動物・・犬や猫の死体も同じですね。

 人間がライオンやクマに食われることがごく少数の例外の出来事になってから、人間は死ぬことが下手になったのかも知れないなあ。死んだらどこに行くんだろう?などと考えるヒマも無く、死んで埋葬するヒマも無く、動物たちに食われて、食物連鎖で世界に延々とつながって行くわけですもんね。死体を焼くなどというのは自然から見たら、ムダなことしてるってことになるのかも知れないなあ。
 藤原新也さんの「人間は犬に食われるほど自由だ」っていうフレーズも思い出しました。ほんとは心のどこかで「死んでムダに腐っていくのも焼かれるのもイヤだよー。動物に食われたいよー」と思っているのかも知れないですね。
 とはいえ、ライオンやクマに生きながら食われるのってすごい怖いしものすごく痛そうだし、自然の摂理には反するが、もう絶対それだけはかんべんしてくれ、って言っちゃいますけどね(笑)。
 「他の動物は皆、食われたりしてるのに、おまえらだけ食物連鎖から逃れようなんて傲慢すぎる。だから、救いなど与えてやらないよ」と、神様が人間に「死への恐怖の罰」を与えているような気もしてます。
 
 

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